捜真を創り、支えた先生
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シャーロット·A·ブラウン Charlotte A. BROWN
(1839年12月9日-1923年3月8日)アメリカのニュージャージー州で生まれました。
日本国内のキリシタン禁令が解かれた1873(明治6)年、アメリカン·バプテストの宣教師である夫ネーサン·ブラウン牧師と二人の娘と共に来日、聖書の日本語訳に携わる夫を助け、クララ·サンズ宣教師と協力して、近隣の子どもたちに聖書や英語を教える宣教活動にあたりました。
1886年、ネーサン牧師が亡くなり、サンズ宣教師もアメリカに帰ることになったとき、シャーロットは学校を始める決意を固めました。校舎は山手67番にあった日本で初めて日本語の聖書が印刷された印刷所、生徒は7名でした。その後、山手34番に広い校地を取得して新しい校舎の建設計画に着手するとともに、教育宣教師の派遣をアメリカン·バプテストの本部に依頼しました。
1890年、教育宣教師としてクララ·A·カンヴァースが来日すると、アシュモア牧師と結婚し、中国における宣教のために日本を離れました。1909年、再来日し、横浜山手211番の長女の家に住まい、何度も捜真を訪れています。1923年3月8日、山手の自宅で亡くなりました。83歳でした。外国人墓地のネーサン·ブラウンの墓に埋葬されました。
捜真教育の原点となった先生の働きに感謝して、現在の7号館2階の自立学習フロアーをシャーロット·A·ブラウン·メモリアル·センターと呼んでいます。 -
クララ·A·カンヴァース Clara A. CONVERSE
(1857年4月18日-1935年1月24日)アメリカのヴァ―モント州で生まれました。
ヴァ―モント·アカデミーとスミス·カレッジで学び、26歳で州の小学校を指導する視学官に任命されました。その後、ヴァ―モント·アカデミーの教師となりましたが、キリスト教を知らない人々に聖書の言葉を伝える宣教師となる決意をしました。
1890年1月25日、シャーロット·A·ブラウンの招きに応えて横浜に上陸し、9月に捜真の校長となりました。翌年、山手34番に本格的な校舎が完成したころ、英語名をメアリー·L·コルビー·ホーム、日本名を捜真女学校と定めました。
1910年、山手34番の下に路面電車のトンネルが掘られることになったのをきっかけに、より広い校地を求めて現在地の神奈川区中丸に移転しました。移転によって、生徒数は一時減少しましたが、一人ひとりを大切にするカンヴァース校長をしたって、生徒が集まり、4年後には100名を越えました。‘Trust in God. Be true to your best self’ (「神を信頼し、最善の自己に忠実であれ」)はカンヴァースが当時の生徒の手帳に記した言葉で、現在はスクール·モットーとなっています。1925年校長を辞任し、学校の近くに住んで、卒業生や教職員の訪問を楽しまれたそうです。1935年永眠、捜真に近い三ツ沢墓地に埋葬されました。
現在は、学院の2号館チャペルをカンヴァース·メモリアル·チャペルと呼んでいます。 -
メアリー·L·コルビー Mary L. COLBY
(1813年-1894年)アメリカで生まれました。
アメリカ婦人バプテスト外国伝道協会の初代会長であり、シャーロット·ブラウンが山手34番に捜真最初の本格的な校舎を建設しようとしたとき、最初の100ドルの寄付をなさいました。このことに感謝して、1891年、英語の校名をMary L.COLBY Home(後にSchool)と定め、太平洋戦争前まで、「捜真」と並行して使われていました。
コルビーは一度も日本にも捜真にも来たことはありませんでしたが、祈りと献金によって捜真教育を支えました。 -
アナベル·ポーレー Annabelle PAWLEY
(1890年12月25日-1945年5月19日)アメリカのニュージャージー州に生まれました。コロンビア大学を卒業後、アメリカで教師として働き、1915年宣教師として来日しました。姫路や仙台のキリスト教学校で教え、1923年捜真に赴任しました。1925年から28年まで、第3代校長の責任を負いました。とても美しい日本語を話されたそうです。1938年母の看病のために帰国、コロラド大学で日本語を教えました。コネティカット州で永眠されました。
現在の御殿場自然教室のチャペル棟をポーレー·ホールと呼んでいます。 -
高垣勣次郎
(1884年7月6日-1957年7月6日)兵庫県で生まれました。同志社大学卒業後、アメリカのロチェスター神学校(ニューヨーク州)で学び、帰国後は京都教会、東京学院(関東学院の前身)等を経て、1921年捜真の教頭として着任されました。1929年から3年間、第4代校長としての責任を果たされました。生徒の自主的な活動を応援するとともに、校外見学のプログラムなどを実行し、生徒の世界を広げるために尽くされました。
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坂田祐
(1878年2月12日-1969年12月6日)秋田県で生まれました。東京学院、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業後、東京学院の教師となりました。1919年、横浜の関東学院学院長に就任しました。1932年から46年まで、捜真の第5代校長を務め、2校の責任を担いました。主事として、中西敬二郎先生、その後岡本達先生の協力があり、アメリカン·バプテストからの独立、校舎の改築などに貢献されました。
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千葉勇
(1902年8月14日-1987年4月9日)東京で生まれました。東北学院卒業後、ウイリアム·ジュエル大学(ミズリー州)、ロチェスター神学校(ニューヨーク州)で学びました。
1947年から73年まで、捜真の第6代校長として、退任後は理事長として、戦後の復興と発展に尽くしました。また、捜真小学校を再開するとともに、捜真バプテスト教会牧師、捜真幼稚園園長、日本バプテスト同盟理事長、尚絅学園校長を兼任しました。
現在の3号館のホールを千葉ホールと呼んでいます。 -
ウィニフレッド·エーカック Winifred M. ACOCK
(1883年5月24日-1974年9月26日)インディアナ州で生まれました。
カリフォルニア大学、アメリカン·バプテスト宣教師養成学校を卒業後、1922年来日しました。尚絅学園で教えた後、捜真に赴任しました。太平洋戦争が始まり、1943年9月に帰国しましたが、戦後すぐ46年10月に再来日して捜真の教壇に立ち、図書室の充実のために尽くしました。女学校図書館をエーカック記念図書館と呼んでいます。
帰米後、カリフォルニア州で永眠されました。 -
日野綾子
(1911年1月3日-2000年3月9日)福井県で生まれました。
横浜に転居後、青木小学校を卒業後、捜真の普通科·英文専科で学びました。キューカ大学に留学後、捜真で英語を教えるとともに、東京都大田区教育委員長、世界バプテスト婦人部会長を務めるなど国内外で活躍しました。
1973年から1988年まで第7代校長、1988年からは理事長·初代学院長を務めました。カンヴァース校長の教えを受けた卒業生の校長でした。
御殿場自然教室本館のホールを日野ホールと呼んでいます。 -
小倉遊亀
(1895年3月1日-2000年7月23日)滋賀県で生まれました。
奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)卒業後、1920年から36年まで、捜真で国語と美術を教えました。カンヴァース校長が絵の制作に取り組む小倉先生に「あなたボタンの絵描きます。ボタンの花、神様あります。神様一生懸命描いてください」と励まされたそうです。
退職後も度々捜真を訪れ、校旗のデザインや本館校舎のタイルの色を決めるなど、生涯捜真の教育に関わりました。
現在の5号館ユキホールの「ユキ」は先生のお名前をいただいています。